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まあ、動け③

 2016-07-11

自分で決断して成功したら、自分への信頼は高まる。
自分で決断して失敗しても、自分の行動力への信頼は高まる。

誰かに何かを決めてもらうたび、自分への信頼は下がる。
誰かに何かを決めてもらって成功したら最悪で、もう自分の判断を信じるなんてできなくなる。

…くらいの覚悟で、生きてみましょう。

これ、学生や若手キャリア研修でよく伝えていること。
だれに頼ってもいいけど、最後には自分で判断しなさいね、と。

さ、動きましょう!
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まあ、動け②

 2016-07-10

「本当にやりたいことなのかどうかわからない。ありのりさん、どうやって見極めていますか?」

純粋な意志からなのか、エゴからなのか。

・やりたい・・・純粋にやりたいのか、エゴを満たすためにやりたいのか。

・やりたくない・・・純粋にやりたくないのか、失敗や恥がこわくてやりたくないのか。

なにが自分の純粋な意志で、なにがエゴなのだろう。
ありのりさん、どうやって見極めていますか?

…私の感覚は私が試して得てきた感覚だからあなたの役にはまったく立たない。残念ながら。

あえていうなら、「ぴっと来て、ふわ~っとしたら、純粋な意志かな。おお!って来て、むむむっとしたら、エゴかな」みたいな。
ほらね、役に立たないでしょ。

まあ、動け。

まあ、動け①

 2016-07-09

わたしを生きていきたいと願うひとは多いけど、実践と失敗抜きで自分の人生を上手く生きようなんて絶対無理。

やってみなくては、それが自分のやりたいことなのかどうかなんて絶対わからない。そんなこと、ひとにこれで正しいかどうかなんて聞いてる場合じゃない。やってみるんだよ。

何回、自分で選ぶってことを実行したか。
何回、「これじゃないのか」を実感したか。
うまくいってたら、快。
うまく行かなかったら、不快。

それを繰り返すたび、目の前の瞬間瞬間の選択能力が洗練されていく。
あったりまえの、シンプルなこと。

まあ、動け。

【光の強い人・闇の強い人】※追記:「人」を「時」と置き換えても可

 2016-07-07
【光の強い人・闇の強い人】※追記:「人」を「時」と置き換えても可
いろいろ最近ひとを観察する機会があり、ちょっとまとめてみたら興味深かったのでアップしてみました。

光が強い人は魅力的である。イメージは、さわやか・透明感・元気はつらつ・あたたかい。

闇が強い人は魅惑的である。イメージは、鋭さ・情熱・俺様・小悪魔。




光だけでは生きていけない。生きるためには闇のもつ強さ、したたかさ、泥臭さが必要。

闇だけでは生きてはいけない。生きるためには光のもつ世界への信頼が必要。




そして、




光が強い人は、傲慢である。自分の闇が見えない。だから、不意に自分の闇に襲われる。

闇が強い人は、偏屈である。自分の光を信じない。だから、不意に自分の光に苦悶する。

ちょんまげ。




光が強い人は、闇の強い人を通して自分の闇を刺激されて相手を嫌悪し拒絶する。

闇が強い人は、光の強い人を通して自分の光を刺激されて相手を嫉妬し憎む。

ちょんまげ。




光が強いだけでは、人はつながりを感じられなくて近づけなくなる。

闇が強いだけでも、人は怖くて近づけなくなる。

ちょんまげ。




光が強い人は、闇の強い人の光が見える。伝えたところで相手は受け取らない。

闇が強い人は、光が強い人の闇が見える。伝えたところでやはり相手は受け取らない。




そして、互いによく惹かれあう。なぜなら、本来、ひとは統合に向かいたがるから。

そばにいて、安心感はない。でも、興味がある相手がそれ。

その相手は、見えていない自分の部分。




統合を目指すならその相手との出会いは大変なギフト。祝福に値する。




※闇というのは心理学的な用語「シャドウ」の闇です。




※人は内的に光と闇の両面を同時に持ち合わせています。闇だけ強いとか光だけ強いとか、ないです。




※その両面を自分の中に「ある」と認識し受容することが統合です。




※ちょんまげ、は、なんか重くなるのが嫌だから入れてみた。あはは。

愛の道を進むとは

 2016-07-04

愛の道を進むとは、無抵抗な道を進むということなんだなあと最近よく感じる。

その道中は葛藤、降伏、受容の繰り返しをコツコツと行うのみ。

ただ、繰り返すほど、自分が愛情深い人間だったことを知り、人生はただ愛で出来ていたのかとほとほと知るのだけど。

ただし。

自愛を置き去りに進むとき、それは愛の道ではなく依存の道である

罪悪感について

 2016-07-02
【罪悪感はクセモノ】




「わたしを生きる」という意味は、「とにかく、わたしが決めた人生を生きていこうぜ」ということで、




そこには、「これが常識だ」「当たり前だ」って無自覚に習慣的に選択していることにも気がついて、自分の意図を持ってあらためて選び直そうよ、ってことも含まれます。




で、その無自覚さを強固にしているのは「罪悪感」。




罪悪感って、一見、謙虚で責任を担ったものにみえるもしれませんが、実は罪悪感の根元はエゴイスティクさと無責任さ。保身が土台であり、見事に自分の頭を使わせないようにしてくれる、かなりのクセモノと睨んでおります(¬_¬)。

まあ、わかっててもよくひっかかっちゃうんだけどさ。でも、罪悪感の奴隷になっちゃだめ。




だから、自分が罪悪感を感じる行動や、罪悪感を避ける行動を取る場面には敏感になるようにします。




そして、それはどこから出ているのかを見つめ直し、本来の自分の(愛からの・自愛や喜びからの・NVC的に言うと「ニーズ」からの)意図として行動を選び直す手間をかけることは、「わたしを生きる」ためにとても大事だと思っています。




さて、この記事。




罪悪感発生システムは国ごとに存在し、それは人類社会の基本だと書かれていて興味深かったです。




あらまー、私を生きるって道は、人類社会の基本に挑戦することになるのね。どえらいもんを相手にしちゃうなあ。




ま、そうかもね。




でもさ、勇気と支えと、ちょっとした知識があればそれは可能なことだと感じていて、私はあらゆる場面で、それをするお手伝いをこれからもやって行きたいと思っているのです。




『わたしを生きる あなたと生きる』


参考サイト

一部抜粋

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

『日本の民主主義とは、「個人の平等」ではなくて、「立場の平等」なんです。つまり、いかなる「立場」も等しく尊重されないといけないけど、「人間」は尊重しなくていいというわけです。だから、日本人は立場を失うと、尊重されなくなります。立場を失えば、何をされても文句は言えないという状態になる。それが恐ろしくて、みんな立場を守り抜こうとするんです。




 その役を果たすエネルギー源が、「罪悪感」です。多くの人は、「私がやらないといけない役が目の前にある。それを放置することはできない」と考えるでしょう。なぜならば、役を放置すると、強烈な罪悪感が湧くからです。




 ちなみに、立場主義は日本特有のシステムですけど、世界各国それぞれに、形の違う「罪悪感発生システム」があるんです。




 中国ならばメンツ主義。彼らは、立場が失われても罪悪感を覚えませんが、友だちや親を助けないと罪悪感を抱きます。だから、立場上やらなきゃいけない仕事が目の前にあっても、「友だちとの約束があるから」と言って平気で放置する。逆に、友だちの約束をむげに断ることは、罪悪感が湧いてしまうからできません。




 ほかの国では、契約社会だったり、幸福で前向きなふり社会だったりします。どこの社会でも、何らかの「罪悪感発生システム」がある。残念ながら、これは人類社会の基本なんですよね。』




@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


「勝つ」ことを手放した日

 2016-07-01
【「勝つ」ことを手放した日】




かつて好んでインセンティブ制の営業マンをやってたくらいですから、すました顔して若い頃は好戦的だったわけですよ。




夢もあったし、野心満々。

外回りでライバル会社の営業マンを見つけたらそぉ〜っと後をつけて、ライバルが接触してるキーマン担当者に当たりを付けて奇襲攻撃して、支社に戻って鼻息荒く武勇伝語って悦にいる、とか。




31歳で独立してからも、早くモノになりたくて、昨日の自分より今日の自分が成長していなきゃだめだ、と自分を責めたりね。昨日の自分に勝て!みたいな。




そうやって高みを目指して自分を追い込むことをイヤってほどやり、虚しさと出会ってどう生きたらいいかわからなくなった30代後半。そこから数年間のいわゆる「人生の過渡期」とやらに入ったのでした。いやあ、これがかなり苦しかった。もがいてもがいて、五里霧中とはこのこと。長かったし。




過渡期の抜け始めは2年前のこの出来事。

あれは不思議な体験でした。

東京で、五井平和賞を受賞したリン・ツイストさんのイベントに出ていたら、全然関係ない場面で白昼夢みたいなのを見たのです。




それは…

ハシゴを高く登っていた自分が、そのハシゴから手を離すと、後ろ向きにふんわりとゆっくり落ちてゆくのです。すると、下で友達やら当時の学びの仲間やらから、たくさんの手が差し伸べられて、わたしは胴上げみたいにふわん、ふわんと受け止められる、という。




そして、「競争から降りてもいいよ」の声。




会場の客席で、ひとりはっとしてました。ああ、ここにヒトがいる。何をやってたんだろう、わたしはもうハシゴを登らない、と。




で、その話を、当時コーチをしてくれていたあきちゃん(大江 亞紀香さん)に伝えたら、この儀式をおすすめしてくれました。




それを境に、たまに襲ってきてた不必要な焦りや妙な憂鬱さからすっかり解放され、気ままで呑気で充足のある日常に、徐々に、でも確実にシフトして行きました。




「勝つ」という業(ごう)とのさよならでした。


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