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「わたしを生きる あなたと生きる」と自己統合②~欠点(闇)を引き受ける

 2016-03-28
◆「わたしを生きる あなたと生きる」と自己統合②~欠点を引き受ける◆

自分の良さ(光)と同じくらい、いや、やはりそれ以上に受け入れがたいのが、
自分の欠点(と認識しているもの。正確には、長所であっても受け入れたくないもの。受け入れたくなくて自分で認識できないようにするところから、闇と呼ぶこともあります)です。

自分で認識している闇は、自分でそこを責めることで統合を妨げています。
いわゆる、「コンプレックス」になってしまっていて、いつまでもそれを受容(統合)できない感じです。

「わたしって、~だからだめだわあ・・・。」と自分を責めることはよくやっちゃいますが、
それから得られるものはほとんどありません。
得られるのは、責めることで許される「気がする」感覚くらいかな。

欠点(闇)をなんとかしようとしてスキルや知識を身に付けるアグレッシブな対処法もあります。
欠点をバネに!というやつですね。身に付けたスキルや知識は武器にはなります。

しかし、武器を持つこのわが身はびくびくしたままです。
「そんなスキルや知識を身に付けても、本当は⚫︎⚫︎⚫︎なんでしょ?」なんてふうに「闇」を指摘されたら、
あっという間に崩れます。

闇を統合するということは、闇に光をあてるということです。

他人から見えないように細心の注意を払って隠してきた自分の欠点(闇)を、
お天道様の下に差し出すのです。

すると、闇は闇でいられなくなります。
闇は光をあてられるとリソースに変わります。


でも、闇はやっぱりなかなか根深くて、
自分一人では自分の中に隠した闇を引き出すのも限界があり、
他者からの指摘やしかるべきセッションなどで自分でも気づかない闇を引き出してもらう方法もあります。

私はこの作業が結構すきで、
わざわざそういうワークショップやリトリートに出かけたり、
信頼おける仲間に率直なフィードバックをもらったりすることもあります。

それは、かなり痛い言葉も多い。
「ありのり(私のニックネーム)、偉そうなこと言って、気はちっちゃいよなあ」とか
「一歩入れない、なにかの壁を感じる」とか言ってもらって、
泣きそうになる。
※こちらから頼んで善意でフィードバックしてくれているのですよ(笑)。

また、別にあえてこのような作業をしなくても、
ひとは光が強くなってくるとと闇に直面させられる事態がおきることも
、あちこちで観察している。

近いところでは、乙武さんなんか、その典型と私は見ています。
ベッキーもかな。
「さわやか」な光に隠した闇(さわやかとは違うもの)に向き合うことになる。

他にも、活躍目覚ましくなってきた方がそういう目にあうのをこの10年何人もみているし、
実はわたし自身も自分の光が強くなりすぎた時期に、
身内と思っていた友人からカウンターパンチをくらったことがありました。

それは友人が悪いのではなく、自分の闇との直面でした。

まあ、それらの闇を、
自責(わたしってだめね・なんとか克服しよう)、でもなく、
他責(私は悪くない、世間がわるい、あいつがわるい)でもなく、
ただ、「ああ、そうか、わたしってこうなんだ」と受け入れたとき、統合することとなのです。

統合の感覚を例えるなら、
その欠点を指摘されたときに起きる反応が、
靴のサイズを聞かれたときと同じ程度の反応しかなくなったとき統合が起きたと判断されます。

私はかつて、「ちっちゃいやつ」と言われるのが嫌で怖くてたまらなくて、
なんとか大物に見せたくて一生懸命でしたが、
本当に自分がちっちゃいやつだと思い知らされる痛い体験があり、めでたく受容するにいたりました。

いまは、靴のサイズを応えるときと同じくらい無感動に、
自分のハートがチキンであることを人に伝えることができます。
そう、卑下することもなく、興奮することもなく、恐縮することもなく、恥じることもなく。
これが統合完了のサインだと思っています。

自分の小ささを認め統合されたとき、
自分は本当に小さいのであって、
小さいことに揺らがない、
そこを指摘されてもなんら痛みはないという「堂々さ」につながるからおもしろい。

小さいことを小さいままでいいとなると堂々とする。…おもしろいなあ、人間って。

闇を統合することは、
光を統合する以上に自己肯定感のUPに直結します。

闇がへると、痛い部分が減るからゆるがない自分になります。
闇は統合してしまえば闇ではなくなるから、指摘されても痛くなくなるからです。

そして、自分に統合した闇は、光に照らされ世に出ますので、有効に活用されるリソースとなるようです。


どうしてもばれたくないと思っていた自分の闇であればあるほど、
抑えるため、隠すために内側に使っていた大きなパワーが解放されるので、
結構大きな社会貢献に役立つリソースもなりうる可能性も秘めています。

自分の内面を見つめる勇気さえあれば、ひとはいくらでも強くなれるのだなと思いました。

武器をもたずして、戦わずして揺るがない、という本当の強さに。
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「わたしを生きる あなたと生きる」と自己統合①~良さ(光)を引き受ける

 2016-03-27
◆「わたしを生きる あなたと生きる」と自己統合①~良さ(光)を引き受ける◆

「リトリートで自己統合してきました!」みたいな私のFacebook記事をみて、
知人が「自己統合ってなに?自己肯定感を上げるってことと関係あるのかな?」という質問をくれました。

説明してみたら、ちょっとおもしろかったので、加筆訂正を加えてシェアします。

自己統合は自分が受け入れていなかった自分の長所と短所(心理学的表現ではそれを光と闇と呼んだりします)を受容していくことを言います。

ジョハリの窓でいうところの、「私のしらない私」を知り、それをじぶんのリソース(性質・資源・特質)の一つだったと認識していくのです。

一般的に「自己肯定感を上げる」というと、自分の良さ(光)を引き受けていくことになります。

自分の良さを引き受ける(光を統合する)ということは、一見幸せな過程に見えますが、
人間は不思議なもので、光を受け入れることに抵抗を感じることも少なくありません。
光には、責任を感じてしまうものだからです。

責任とは、responsibility=対応能力 です。

その光を持っていると受け入れてしまうと、
いままで「できない」と放棄していた対応を「私にはできるけど、どうする?」という選択にせまられることを恐れるから、
ひとは自分の光を引き受けることを拒むと私は感じています。

断ったら罪悪感、引き受けたら責任感。

そんな葛藤がこわいのだと思います。

生きることと、感情について

 2016-03-10
NVCの講座を受講中ですが、
そこでは、内側におきている感情や身体感覚をつかんで味わい尽くすことを学びます。

それがNVCを行うステップではとても大切なのだけど、
だんだんと、あらゆる感情に乗ることが出来るようになると、
快も不快もなにかのアトラクションを楽しんでいる時のように、
実は結構味わい深いなあって所に今はきています。

だから、
不快を早く消すことや、
不快を快に変えることや、
いつも落ち着いた気分でいることが生きる上で大事なんじゃなくて、

「いま感情や身体感覚を味わっている」ということそのものが、
人間として生きてる目的なんだはないかという感覚になってきています。


若い頃、余りに働きすぎて、
花を見ても美しいと感じられない自分に驚いていたことを思い出します。
行動を最大効率化させるため、感受性をものすごく下げていたのでしょう。

無感動な日々は生きながらにして死んでいたのかも。

感情を感じてなんぼ、が生きてるうちに楽しめることなのかもしれません。

とはいえ・・・
感情だけを楽しむためには、
感情が連れてくる思考たちとのお付き合いに、コツがいるかもしれません。
そしてそれは、体得できることだと実感しつつある最近です。

不安にあおられて動くのはよくないが、事実は見よう。

 2016-03-05
やはり、この記事でも改革のミソはトップコミット(と現場主導の両輪)が語られる。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/04/komuro-nagashima-how-to-work-2016_n_9387852.html

…と、日本が転がり落ちる国になるのか、
経済の下げ止まりを7割程度に保ちなんとか安定的(持続可能)でいられるのかは、

統計的にあと3年以内に出生率を1.8〜2に回復するかどうかにかかるという見通しに
、日本の緊急性が現れる。

不安に煽られ慌てて対応策に走るのは、
様々なものを見落とすことになる気がするのでかなり気を付けているけど、
この時間のなさや起きている事実に目をそらすこともまた、多くを見落とす。

事実を見つめ、痛みも希望も感じた上で、根源的な叡智(願い・指針)から動く。U理論に学ぶ知恵。その素直さと強さを持って向き合いたい。

くぅ~、しみるねえ

 2016-03-03
「わたしを生きる あなたと生きる」という私の活動理念は、
社会性を持ちながら自分の自由にのびのびと自立するという文脈なのだと最近解明が進みますが、

探求を進めますと、この自立性の確かさと、関係性の豊かさの構築は、
あいてもわたしを生きるところに立つ・もしくは立つ覚悟がある場合の
実に豊潤な命の交流にわたしは可能性(と楽しさ)を見ているようです。

そして、「わたし」や「あなた」のそこに揺らぎや疑いがありますと、やはり関係性の中ですから、
人間本来の優しさと防衛本能から壁ができて寂しくなったり依存ができてどちらかが疲れたりこじれたり。

それもまた「葛藤」という、この世のお遊びなのかもしれませんが。
くぅ〜、しみるねえ、ってタイプのお遊び。

たのし。

光と闇の番人になるということは

 2016-03-03
その業界の友人から聞いたはなし。
検事をしていたひとが辞めて弁護士になることをヤメ検というらしいが、ヤメ検の中には、それまで検事だったにも関わらず一転闇の世界の弁護をする道を選ぶひとは決して少なくないとのこと。

一部のヤメ検のそんな姿には後ろめたさや悪びれる様子もなく、同業の弁護士から見ても、まるで本当に闇に取り込まれた感じがするらしい。その高い知性、能力、スキルと経験が社会の闇に加担することになるのか…。なんとも無念だなあ。

光を正義として闇を敵視しつづけると闇に落っこちる、という心理がひとにはあるが、そういうことなのかな。

検事や弁護士のような、光と闇の強いコントラストの中に日々立たされる仕事をするひとに、その辺りの危うさはどのくらい共通認識として予防的な学習や施策が促進されているんだろうか。

…まあ、いないんだろうな。

目の前の友人もベテランではあるが、仕事の精神的な限界に悩み、その妥協点や突破点を模索せずにはいられないらしい。リアルなはなしはコンプライアンス上話してはもらえないが、そのようすから法曹業界の現場は本当に厳しいものだと感じた。

光と闇のはなし、それを超えた「全体性」というもののはなし。光は闇を包めるし、闇を突き抜けるとそこに光があるという真理。その両方および周辺の感性に自覚的になる必要性。

まだ自分の体験を通し検証過程にいるから拙い説明になるのがもどかしいけど、近年徐々にまとまりつつあるこの辺りのことについて、私の知る限り、感じる限りでなにかヒントになればと語り合った。

忙しかった2015年度

 2016-03-02
確定申告書作っていて分かったけど、昨年は136日も登壇してた。
どうりで忙しかったはずです。
やりたい事やってたから、充実していましたが。

とはいえ、今年はたくさん手放したし、もうすこし遊び心も大切にして参ります
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